屋根の上のヴァイヨリン弾き     
F8Z
「屋根の上のヴァイオリン弾き」は
ウクライナの「ショレム・アレイヘム」の小説
「牛乳屋テヴィエ」を原作とした
ブロードウェイ・ミュージカルです。

1971年にアメリカで映画化され同年12月には
1ヵ月遅れで日本でも上映された。
日本での舞台上演は1967年9月で主人公の
テヴィエ役を森繁久彌が演じ
そのご他のキャストに引き継がれ50年を経た
現在まで上演されています。


19世紀末の帝政ロシア時代、アナテフカと言う
一寒村で東欧・ロシア系正統派の
ユダヤ人テヴィエが
牛乳売りの行商で妻と5人の娘を養い、
時代の変遷の波に飲まれながらも伝統や
しきたりを頑なに守り通してきた。


アナテフカの日常は農業を中心に
肉屋/縫製業/結婚仲介人/鍛冶屋/大工/
牛乳販売など村民は貧苦で劣悪な仕事に
従事していた。

村の市場はユダヤ人と非ユダヤ人(ロシア人、
ウクライナ人)の交流の場でありユダヤ人は
自分たちが作った農産物や家畜などを取引し
生計を立てていた。

村の中央にはシナゴーグがありラビを頂点と
したユダヤ人の社会的、宗教的なコミュニティ-
センターがあり
単に礼拝だけではなく学習の場や集いの場と
して役目を果たしていた。

隣接地では日常ロシア人とも共存し
争いもなく平和に暮らしていた。

人々は聖書とラビの教えに従って伝統や
しきたりを守り共に助け合い、
家庭にあっては父親を中心として
まとまり祈りや戒律を守ってきた。


ユダヤ社会では仕立て屋や靴職人は
学問のない貧しい職業と見なされることが多く
仕立て屋は7人で一人前と
言われていた。

娘の結婚相手の家庭が仕立て屋や靴職人である
と父親は結婚を許可しないこともあったと
言われている。

やがて娘たちは成長の過程で新たな自覚と
価値観が芽生え、次第に父親の思いとは別に
大きく乖離していった。

ついには
結婚に関して娘たちは父親の考えを否定し
自らの思いを貫き通す。

テヴィエは深く悩み苦しみ続けるが、娘の幸せを
願って最後にはとうとう許してしまう。

しかし三女チャバの異教徒との結婚に関しては
一家の長として、
また神との契約により戒律を否定することも
できず
悲壮な覚悟で娘を追放してしまう。

子供たちは随分親に迷惑を掛けたが
苦労を親に掛け娘たちは育っていった。
娘たちは結婚してそれぞれ新たな
アイデンティティが芽生えるのかも知れない。

小さな娘がまだ二人も残っており、テヴィエも
大変であるが、
アシュケナージのニューヨークでの繁栄ぶりを
見ると、
未来が開けたのかも知れない。
 
 
 
 
 
 
 アシュケナージ第2、第3世代
 40年以上の前のことで
記憶もやや薄らいでいるが
過去アシュケナージのユダヤ人1世と思われる
ビジネスマンに出会ったのは確か75年あたり
ではなかったか,と
記憶している。ある日ひとりの老紳士が
突然訪ねてきた。

彼は上から下まで黒一色の衣類で身をまとい
黒のハットを被り年は優に80を超えている
ように思われた。

今にして思えば彼こそは19世紀末生まれの
アシュケナ-ジ一世の老紳士でなかったかなと
思い出す。

1924年には移民法が成立し移民の流入が阻まれ
時代は
1世から2世、3世へと移って行った。
昔は各国から訪れるユダヤ人は生活や職業の
必然性から
4ヶ国語、5ヶ国語を話す人も多かったが、
今では生活環境も定着し若い人は多くを話さ
なくなったようだ。

稀に高齢者と若齢者が来た時など価格を秘密裡に
交わす場合、
小声で高齢者がヘブライ語で話そうとするが
若者は上手くついて行けず
いつしか英語に変わっている場面も見られる。


ユダヤ系アメリカ人の8割以上はアシュケナージ
系のユダヤ人と言われており
現在ビジネス関係にあるのが
この「屋根の上のバイオリン弾き」の延長線上
にある
第2世代、第3世代のビジネスマンである。

正統派のビジネスマンは主流の改革派や保守派
に比べれば少ないが、
顧客の存在としては大きいものがある。 
 
 
 
 
 
 
 正統派の子だくさん
  正統派の家庭は「子だくさん」で有名である。
まさに旧約聖書の「産めよ、増やせよ、
地にみちよ」である。
本題の原作では娘は5人ではなく、更に下にあと
二人の幼女がおり計7人となっている。

昔出会った正統派のユダヤ系スイス人は
11名の子供がおり将来はサッカーチームを作りた
いと意気込んでいた。
当時話を聞いてみると正統派の子供は6,7名が
普通であったようだ。 
 
 
 
 
 
 
100年前の正統派ビジネス 
 
 ある日一家が暮らす村へ警察署長が突然
やって来た。
村人に向かって「家と家財道具のすべてを売り
払うのにどれくらいかかるか」と
尋ねる。
村人は驚き、事情がよく呑み込めないでいると
「家を売って三日以内に村を立ち去るように」
と厳命が下る。


原本ではその後テヴィエには一案があって家
と土地とを村長のイヴァン・ポペリコに売るため
彼のもとを訪れ売買交渉に入る。

テヴィエは簡単に事情を説明し「わしの家屋
を庭付きで買ってくれないか」「あんた以外には
売りたくないんだ」と泣きを入れる。

「いくらほしい」「いくらなら出せるんだい」
ああでもない、こうでもないと
長々と押し問答を繰り返し、やっとのことで
決着することができた。

これこそが今も変わらぬ100年前の正統派の
ビジネスです。
ほんの短いネゴですが、ユダヤビジネスの本流の
一端を垣間見ることができます。


テヴィエは急いで家へ帰り長女のツァイテル
と荷造りし、住み慣れた村をあとにし新天地を求
めてニューヨークへと旅立って行った。



『屋根の上のヴァイヨリン弾き』
  ショラム・アレイヘム 南川貞治 訳


『牛乳屋のテヴィエ』 
  ショレム・アレイヘム 西 成彦 訳
 
 
 
 
 
 
アメリカへ渡ったアシュケナージ 
  ロシアから逃れて来たユダヤ人は
戒律に忠実な正統派であったが、それ以前に
アメリカへ渡ったドイツ系ユダヤ人は
戒律、職業、日常生活など
アメリカの現状に合った社会的慣習を容易に
受け入れ改革派と言われ
経済的にも安定した中産階級であった。
改革派は食事については制限もなく自由で
あった。

一方そのあとアメリカへ渡った東欧・ロシア系
ユダヤ人の中にも戒律を守りつつも
現実のアメリカ社会に合った考え方や生き方を
する人々があらわれてきたが、
先着のドイツ系ユダヤ人が唱える
「改革派」には抵抗感もあって受け入れ難く中間
的な位置づけとして「保守派」が生まれた。

現在アメリカのユダヤ系富裕層は
この改革派と保守派の
ビジネスマンだと言われている。

保守派は外での食べ物は自由であるが
家庭にあっては戒律を守っており礼拝時の
キッパーも着用するものの
改革派は自由であるようです。 
 
 
 
 
 
 
 
 コーシャ(適正食品)
K6
 日本を訪れるユダヤ人とは
稀に食事をすることもあります。
多くは非ユダヤ人であるが
その日の雰囲気で連れ立つこともある。
ユダヤ人のカシュルート(清浄規定)は
複雑で厳しく
食事をする場合多少ナーバスにもなり緊張も
するものですが
つき合っていると食事の雰囲気にも多少は慣れ
てきます。


彼らは長年にわたり年に数回訪れるので
街の様子や地理にも詳しく、
食事の美味い店などよく知ってるようだ。
夕食を誘ってもおおかた彼らが先導してくれる
ので気苦労はない。

食事の中で海産物は特にその種類によって
厳しい制限があり
鱗のない魚類、ホタテ・アサリ、はまぐり
カキなどの貝類、そのほかイカ、タコ
ウニ・カニ・エビなどを食することは
ありません。


魚はスズキやヒラメなどの白身がいいようです。
また
前菜としてスモークサーモンも好みのようです。
食事で気をつかうのはソースと添加物です。
人によってはソースの素材に厳格な人もいて
尋ねられることもある。

近年はコーシャフードは安全で安心な食品と
して信頼性が増し、
アメリカでは非ユダヤ人からの需要も多く
なっているそうです。


一方最も厳格な超正統派の人には食事の提供は
できないので
席を同じくすることはありません。

時に彼らから食べ物の提供を受けることも
あります。
それは昼食時です。
正統派の人の中には昼食としてサンドイッチ
を持参する人もいる。

昼時なると紙袋からサンドイッチを取り出し、
商品を吟味しながら一人勝手におもむろに食べ
始める。

この御仁、少ない食料からいつも必ずひとつ
手渡しでくれる。
牛100%の薄塩味の肉厚のハムで添加物もなく
淡泊で実に旨い。

サイズは分厚いアメリカ版なので1枚で
充分である。
そのほか自家製のクッキーも食後の甘味に
持っておりコーヒーとよく合う。

彼らは通常2泊か3泊でやってくる。
東京にはコーシャレストランがあるらしいが、
地方都市にはなく全日程食料持参で大変で
ある。

彼らは週末を日本で過ごすことはなく、
通常は日曜日にアメリカを発ち2,3日滞在し
日本を離れます。

とにかく彼らは夏場には食料の衛生管理と保存
で頭を痛めているようである。
ビジネス日数分の食糧でやり繰りし、
彼らにとって唯一の救いは、
帰りのコーシャフード機内食であるのかも
知れない。


数年前、NHK「新日本風土記・神戸」を
見ていた時に子供を連れた正統派の紳士が
一瞬映し出された。
父親らしい紳士は超正統派であったが、
子供を連れて歩いている姿が珍しく
目に留まった。
東京にはコーシャフードもあるらしいが
神戸にはそのような店はないようである。

正統派の人が一地方都市を訪れることは
困難を極める事であると思われる。
旅行や観光であるにしても。
もしかするとその子供連れの紳士は
ラビではないだろうかと一瞬思ったりもした。
 
 
 
 
 
 
 
 ダイアモンドストリート
M6
 ニューヨークのダイヤモンドストリートと
言えば、
5番街のロックフェラーセンターから歩いて
約10分のところにあります。
(5番街と6番街に挟まれたWest 47th Street)
ワンブロック約300mで道路の両側にはやや
くすんだような
高層ビルが建ち並び、その一階部はショー
ウィンドウになっており、
ダイヤを中心に各種ファインジュエリーが
陳列され、街行くご婦人方が立ち止まっては
ウインドーショピングを楽しんでいる。


この通りはダイヤを中心に宝石類を扱うユダヤ人
男性を中心とした職場街である。
2階以上はビジネスオフィスで各種宝石類の取引
が行われている。そのほか研磨業者や
彫金業者も入っている。


通りにはあごひげを伸ばしロングコートに
シルクハットの超正統派のユダヤ人や
キッパーを被った保守派の人、
背広姿の改革派のような人、
また世俗派の人など。
加えてアラブ系の人、イラン系の人、
インド系の人など
肩が触れんばかりの急ぎ足で
それぞれの目指すビルへ急ぎ足で入って行く。
ビジネスが不成立だと次なるビルへと
順次渡り歩く。

オフィスは47丁目に留まらず前後の46,48
丁目に点在しますが数は少なくなります。
まず電話を入れておいた47丁目のビルを訪ね
てみる。
丁度出勤時間と重なり大勢の人に押される
ようにビルに入ろうとすると
突然背後から声がかかった。


振り返ると2m近くもあろうかと思われる
大男が押し潰れたような声で「ストップ」と
呼び止める。

パスポートと顔を見つめ、名前を告げると
電話をかける。
二言、三言話すと態度が軟化しフロアとルーム
ナンバーを丁寧に教えてくれる。

オフィスは大小さまざまで、中には独自の
リフォームがなされている場合もあり
外壁とは違い
明るく仕上がったオフィスもある。


二階以上はディーラーのオフィスが入り
大卸や卸を中心にビジネスを展開している。
あるオフィスでは売り手と買い手が
真剣な顔で値段の交渉をしているが
なかなかまとまらない様だ。
そばから見ていると気迫と闘志で熱気が感じ
られる。

別のオフィスを訪ねた時に一人のオーナーが
語ってくれた。
セールスマンは事務所内でのビジネスだけで
なく顧客の要望で外販も行っているそうである。
また日本へは年に2、3回ほど行っているので
大忙しである。
人によっては夏季休暇で
ハワイやイスラエルを訪れる時
行きか帰りを利用して日本に立ち寄り
休みを上手く使っている人もいるようだ。

ビジネスがビジネスだけに簡単には
人を雇えないので
いつまでたっても楽にならないと嘆いていた。

それでも毎夕7時過ぎまで働いており、
二人で事務所を出た時には既に誰もいなく
なっていた。
 
 
 
 
 
 
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