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ビジネスの取引先は国内と海外とに
分かれるが商品の特殊性もあり輸出に依存す
るところも大きい。
輸出の取引先の7割以上はユダヤ人であり
当然ビジネスをするにあたっては
多少なりともユダヤ人についての理解も
必要かと思われる。
国別では圧倒的にユダヤ系アメリカ人が多く
2/3近くを占める。
その他イギリス、フランス、ベルギーの西欧、
ドイツ、スイスの中欧、また
南欧のスペイン、イタリアなどがある。
時にはカナダや南ア、ブラジルの人も
姿を見せる。
そのほかビジネス上重要な位置を占めるのは
スファラディ系の人々である。
意外なのはイスラエルで1,2の例外を除き
日本で顔を合わせる機会は
ほとんどありません。
イスラエルといえばやはりダイヤモンド産業が
有名なようです。
さてユダヤ人とビジネスで向き合うには
何か特別のものがあるのかと言うと
はっきり言って何にもありません。
ただただ毎日の仕事を積み上げて信頼関係を
保つことではと思います。
ポジティブに考えればユダヤ人とのビジネスでは
何はさておき商品を売る前に先ず如何にして
「自己を売り込む」ことが出来るかである。
また商品の特殊性により価格の規格化が難しい
面もあり、それ故ビジネスには売り手、買い手のより深い相互信頼が求められます。
国内取引であっても初対面では互いに
相手の手の内が読めず
それなりに緊張するものですが
ことユダヤ人となると一歩も二歩も
腰が引けそうになります。
ましてや黒づくめの衣装で身を固めた
超正統派のユダヤ人であると面食らうことにも
なりかねません。
何はともあれ初対面では1にも2にも
強く自分自身をアピールし
相手に理解認識してもらうことです。
この「自己を売り込む」には徐々に時間を
かけながら相互理解を深めて行くのではなく
できるなら初対面で
一気に自己のすべてを吐露し理解してもらう
方がより効果的です。
では「自己を売り込む」とは「何を売り込む」
のか。それは「自分自身を相手に示す」こと
である。
言葉のみの表現ではなく自分の個性を態度や
身体で表現していくことです。
態度や身体での表現は話言葉などよりはるかに
インパクトや説得力があります。
要するにその人が本来持っている
性格や癖などの「個性」を言葉と身体で表現し
ていくことです。
例えば普段日常生活にあって
少々人から敬遠されそうな「頑固さ」「一本気」
「片意地」「アクが強い」などは個性としては
マイナスイメージがあるにしても
ビジネスにうるさいユダヤ人に対しは
「性格」や「癖」すなわち「個性」を感情表現
するのも決してマイナスでないと思われます。
時と場合によっては
アドバンテージとして生かしていくほうが遥か
に利があるようです。
ここは自分の個性というものを
充分表に出して相手に理解認識してもらう
ことです。
例え相手が非ユダヤ人であっても
またユダヤ人であるにしても
彼等はもっともっと強い自己や個性を出す人も
沢山います。
案ずることはありません。
どんどんぶっつかって行けばいいのです。
遠慮や過度な心くばりは何のプラスにも
なりません。
むしろマイナスとなり、
顔が見えない相手と見なされることにも
なりかねません。
ユダヤ人は初対面であっても疑問があったり、
納得できない点が
あると容赦なく質問してきます。
黙っていると相手は自分の考えや意図する
ところを理解してくれていると思い込み
更に突き進んで来ます。
無言でいたり頷くだけでは相手に
不信感を与えます。
彼等もこちらの考えや・意見を
待っているのです。
あくまでも「自分というもの」を強く相手に
認識させることが
ビジネスの第一歩であろうかと思います。
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その昔ユダヤ人に勝った負けたで囁かれた
巷のうわさ話。
当時はまだまだ海外からのバイヤーも少なく
市場も買い手市場の色合いが強く、
マーケットは成熟にはほど遠い環境にあった。
そのような市場背景もあって「ユダヤ人に
値切られた」とか
「たくさん買うからもっとまけろ」とか
ひどい場合は「売らされた」とか妄言もどきの
言葉が陰で囁かれた。
当時は未成熟の市場にあってユダヤ人の
値引きの要求が
強く不評な点もあったが、
支払いは確実で迅速であったことから自然と
マーケットに受け入れられていった。
支払いはT/Tで決済は早かった。
P/CやL/Cの場合はそれぞれ時間を要したが、
いづれにせよ受け取り側の都合で
円貨は早かった。
しかし契約の不履行など後日問題が生じたこと
など一度も耳にしたことはなかった。
これはビジネスが
上手くいかなかったことを面白おかしく
脚色した挨拶言葉のようであった。
裏を返せばそこそこ上手くいった証でもある。
兎にも角にもユダヤ人なくして
ビジネスなしである。
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ユダヤ人のビジネスに対する厳格さは、
その人の性格や敬虔な極みによって温度差があり
一般的に敬虔な人ほど
ビジネス姿勢は厳しくなる傾向にあります。
中でも正統派の人は交渉過程で手の内を明かす
ことはまずありません。
このことは前述した「屋根の上のヴァイヨリン
弾き」の一節に
正統派のショートネゴの一例が示されています
。
出口の見えない駆け引きが長々と続く神経戦と
なります。
ここでことを急ぐと手の内を読まれ相手の
ペースに填まり
以後劣勢に立たせれることにもなりかねません
。
「駆け引き」の原点には「信頼関係」の確立が
必要であり
これをないがしろにすると「落しどころ」で
意見の食い違いが生じ、
単に値引きだけの交渉となり「実のないビジネ
ス」に終わってしまいます。
保守派や革新派あるいはスファラディ系の人は
幾分かは物腰も柔らかく駆け引きも控えめで
あるが、
厳しいユダヤ商法であることに変わりありま
せん。
時にユダヤ人はビジネスでは人によりアグレッ
シブになる場合もあり、
その発言・態度に対しては明晰な対応が求め
られる。
返事に窮したり、躊躇していると容認したと
誤解される恐れもあり
言いたいことや考えがあれば遠慮なく主張する
ことである。
5言われれば5言い返し、10言われれば必ず
10言い返す。
返す言葉が中途半端では相手の胸を打つには
弱すぎ説得力に欠けます。
意見や主張を繰り返すと彼らも安心し
理解の距離間は確実に縮まります。
しかも、これを習慣づけ実践し続けていく
ことである。
一旦ビジネスに入れば理論や理屈、肩書きなどは
存在しません。
それは個性と個性、商魂と商魂のぶつかり
合いです。
駆け引きのないビジネスなど「万にひとつ」も
ありません。
一寸の隙をも見せない心構えも時には必要です。
最後に勝ったものが勝者となります。
とは言ってもビジネスは勝てば良いというもの
でもなく、
互いに納得できるものでなければ以後上手く
やっていけません。
大袈裟に言えば「共有利益の公平な配分」に
あります。
ビジネスはおおむね40対60の流れですが
60では問題が残るようです。
互いが納得いくビジネスをするには
「落としどころ」を見極め、
内なるイニシアチブを取りながら
ソフトランディングを図ることです。
しかし彼らは「心の商域」も広くあらゆる
手を尽くしても
攻めに窮することもなく、
逆に機先を制せられ思うに任せません。
つまるところ「落としどころ」が決着するのは
駆け引きが進退きわまり互いに究極の「本気度」
を示した一瞬です。
不本意にも心意気が合わずに
一瞬タイムラグが生じると今まで構築してきた
ものがすべて解消してしまう
恐れがあります。
中途半端な本気度では彼らは微動だにしません。
時には目を覚ますような本気度を示すことも
必要かも知れません。
ユダヤ人とのビジネスは混迷と迷走の38年間
であったが
一度ハマると結構面白いものがあります。 |
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初めてユダヤ人と取引があった頃の
為替レートは1$=360円であった。
この為替レートは1971年の8月まで続き
73年2月には変動相場制へ移行した。
それから22年を経て
1995年4月には1ドル=79円75銭の史上最高値
を付けた。
この間乱高下を繰り返し1985年9月には240円
であった。
円相場は同年11月には200円台へ急騰し、
更に翌年2月
には170円台へと円高が進んだ。
更にその後も円高は止まず、88年にはついに
120円まで急騰した。
通常、取引はドル/ドル、円/ドルなどが
あるが、
中にはドル高の反転を先読みし
円送金を希望するバイヤーもいた。
しかし市場は反転することもなく
尚も円高が続き円買いの読みが難しい
局面がしばらく続いた。
やはり程なくして電話を受けた。
当時NHKの夜9時のニュースでは連日の如く、
大企業の首脳が入れ替わり出演しては窮状を
訴え続けた。
大手の自動車メーカーでは1円円高になると
2~300億円の
減益要因になると言われていた。
他方同じ年の1月には阪神淡路大地震が発生し
神戸の街は大きく傷ついた。
その中でユダヤ人居住地でも住居やアパート等
の損壊や倒壊などで
生活の基盤までもが失われた人もおり、
中には一時県外などに避難する人もいたようだ
。
シナゴーグでも屋内外に被害があったようで
復旧には時間を要した。
神戸の街は電気は約1週間で復旧したが、
水道は3か月かかっている。
ホテル関係は1年後には9割近くまで復旧して
いるが
海外からの訪日客のアクセスとなる大阪空港-
神戸間の
阪神高速3号線が復旧したのは1年4か月後で
あった。
円急騰と大地震でしばらくは海外とのビジネス
ができるような
環境ではなく一時的に訪日客が減少した。
そのような折シナゴーグからある日突然電話が
あった。
話を聞くと海外からのユダヤ人の来日が少なく
在留ユダヤ人の中には一時的に県外に避難
していたりして、
十分な活動ができず困っている様子であった。
公式な礼拝には10名の成人男性が集うことが
必定とされている。
立場は同じなので来日スケジュールが分かれば
連絡は可能であった。
只その中で一つだけ返事に窮したことがあった。
それは正統派の人はどうなのか一瞬迷った。
以前神戸のラビは改革派の人か保守派では
ないかと聞いたことがあったが
はたして正統派の人を紹介するのは
シナゴーグにとっても本人にとっても問題が
ないのか確信が持てなかった。
かくして在日ユダヤ人の住宅事情や老齢化に
加えて、
円高による輸出の手詰まり感や海外からの
バイヤーの一時的減少も重なり
これから先の見通しも立たたず、
中には神戸での生活に限界を感じ始めてきた
人も出てきたようだ。
ついには日本でのビジネスに見切りを付け
本国へ帰る人が出始めた。
ある日、在日ユダヤ人が訪れ本国へ帰る旨
挨拶に来た。
ひとりは「日本に住んで20年以上になるが
振り返れば日本での
暮らしは安全でとても気に入っており、
それなりに愛着もあったが
これを機に元気なうちに帰って親族ファミリーと
一緒に暮らしたいと別れを惜しんだ。
また、中には神戸でのビジネスには充分満足で
きるものがり
多くの日本人とも友達ができ神戸はいい
ところであったと振り返った。
もう少し輸出の環境が良くなればとの
思いもあるが、
移住先でも小さいながらも商売を続けたいと
熱い握手を交わした。
また他のユダヤ人は「これを機に子供たちの
将来を思って
イスラエルへ戻りアイデンティティを芽生え
させてやりたい」と話してくれた。
3年後に彼とはイスラエルで再び会うことが
できたが、
日本での陽気で冗談好きな一面は残って
いるものの、
今では厳としたイスラエル人となっていた。
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